「かくれ念仏」
半世紀ほど前、鹿児島県霧島山麓の村の小学校で「給食拒否」の騒動があり、地元紙が大きく取上げたことがある。
給食に出された「鶏肉」が問題になったのである。
この「事件」によって、これまで地元の一部にしか知られてなかった「カヤカベ教」の存在が明らかになった。
カヤブキの壁に本尊を隠して祈る宗教、周囲の人たちはこう噂していたが、表向きは「霧島講」。山岳神道のひとつである。
だから、天照大神が霧島高千穂の峰に降臨した時、鶏をともにしていたので、「神鳥」として敬っていたのだ。
しかし信仰の実態は、「阿弥陀如来」を本尊とする真宗(一向宗)だった。薩摩藩による「一向宗禁制」を逃れるため、山岳信仰を取り込んで偽装した。
いわゆる「かくれ念仏」である。
1963(昭和38)年、京都の龍谷大学は「鹿児島における禁教と開教に関する調査研究」として、このカヤカベ教の実態調査を行い、はじめて学問的にその存在意味を明らかにした。
調査は足掛け3年にわたって行われ、筆者もコーディネイトと取材を兼ねて同行したが、教えを秘匿しようとする信者や教えそのものが「口誦伝承」のため、調査も取材も難しかった事を思い出す。
「カヤカベ教」ほど特異な存在ではないが、鹿児島各地には「かくれ念仏」の遺跡や伝承が多く残っている。
また薩摩藩による厳しい詮議と、門徒に対する無残な拷問の記録も残っている。

故郷南さつま市には、山中の岩屋の中に阿弥陀仏を隠して拝んだ「相星かくれ念仏」の遺跡が保存されている。
こうした「かくれガマ」は、隣の知覧・川辺(南九州市)にも幾つか残っている。
1858(安政5)年、加世田郷小松原の蔵元(米倉庫)を襲った「加世田一揆」は、一向宗門徒である農民と下級郷士による叛乱だった。厳しい年貢の取立てと宗教弾圧に対する怒りが、上級郷士に対して爆発したのだ。
3日間続いた一揆は、日新寺(曹洞宗)の僧の仲介によって納まったが、10人の首謀者は鹿児島の宗門改め所に引き立てられ、言語を絶する取調べを受けた後、種子島などに流された。
江戸末期、加世田唐仁原の番役(門徒講の指導者)儀兵衛は「かくれ念仏」が発覚して、鹿児島に護送。割り木責めと重石責めの拷問を受けたが白状せず、半身不随のまま一生を終えた。
また加世田益山の寺園伝蔵は、1915(大正4)年84才で亡くなったが、明治初めの「禁圧解禁」まで18回もの拷問による取調べを受けた事を証言している。(「日本残酷物語」第3巻)
その拷問に使われた重石などは、現在鹿児島西本願寺別院の庭に残されている。
戦国大名と対立した本願寺門徒の「一向一揆」は、室町から戦国時代にかけて、北陸を中心に度々起こった。信長などかなり手こずり、何度も兵を出す。本願寺の本山があった、大阪の石山を焼き討ちにしたのもそのひとつである。
江戸時代に入ると、徳川家康は本願寺を幕藩体制下に組み込んだ。官僚化した宗門指導者たちも、幕府の寺請制度を通じて門徒とのつながりを強化し、教団の維持に努めたのである。
こうして本願寺(浄土真宗・一向宗)は、日本の総人口の半数を檀家として組織する最大教団となった。
しかし薩摩藩だけは、戦国時代からの掟「一向宗禁制」を変えず、厳しい弾圧を続けた。その凄まじさは、キリシタンに対するそれ以上だったという。
何故薩摩一藩のみが、このような弾圧を続けたのだろうか。それには幾つかの説がある。
ひとつは、1587(天正15)年の豊臣秀吉島津攻め(1587年)のとき、一向宗門徒が先導した事の逆恨み説。
もうひとつは、島津家の家督をめぐるお家騒動(1599・慶長4年)の折、敗れた薩州島津家や家老伊集院幸侃(こうがん)一族が一向宗信者だったからという説がある。
しかし本質的な理由は、一向宗の宗祖親鸞の平等主義が、薩摩藩としての権威と権力の維持に相反するからである。
既にそれ以前から、島津日新公は「日新菩薩記」の中で、一向宗の教えが「忠孝に反するので禁制にすべし」と述べている。
もうひとつ、経済的な背景もある。
「搾取本願」といわれるほど、教団は門徒から各地の産物を上納させていた。薩摩の「かくれ念仏」にも、「椎茸講」とか「煙草講」「仏飯講」などという名前が残されているように、講を開いては物産を集め密かに京へ送っていた。
侍の多い貧乏藩であった薩摩にとっては、産物の流失は藩の財政に大きな影響を与えたのである。
明治維新、そして「廃仏毀釈」。1616を数えた薩摩藩の寺院全てが壊された。侍たちが菩提寺としていた真言・曹洞・臨済・法華宗の寺々である。
島津家の菩提寺福昌寺も、残っているのは歴代藩主の墓だけである。
島津家由緒の妙円寺(伊集院)、感応寺(野田)、慈眼寺(谷山)や、名寺一乗院(坊津)も跡形なく消えた。
ここまで完璧は「神仏分離」を行ったのは、薩摩と水戸だけだった、といわれている。
1876(明治9)年、「真宗解禁」。京都からは7人の青年僧が、布教のため来鹿した。湧き出るように、門徒衆が彼等を迎えた。
鹿児島における寺の再建は、真宗からはじまり現在も日本一の「真宗王国」を築いている。
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