「スイート・ルームの部屋割り」
「1本だけの橋」を渡って、霧の中をマウント・ワシントンホテルの敷地に入る。両側はゴルフ場で、およそ1キロ走ると玄関に着く。各国代表団の車が次々に到着する、36年前のニュース映画そのままである。

回廊の柱も、シャンデリラも、総会が開かれた大ホールの白い椅子も、36年前と少しも変わっていない。
このホテルは、もともと別荘として建てられたものである。今世紀のはじめ、ペンシルバニア鉄道を経営していた大富豪が、フランス・ブルタニアの王族出身の妻のため、ヨーロッパ風の城を築いた。
下2階は石造りで、その上に回廊をめぐらし、さらに5階の木造の建物が乗っている。
部屋の数は250室、3つの大バルコニーと4つのホールがあり、地下にはワイン貯蔵庫や食糧庫がある。
大富豪の死後、別荘は人手に渡ってホテルに改造された。ブレトン・ウッズ会議が開かれたためホテルの名前も有名になり、いまではアメリカ東部の政財界人たちの絶好の避暑地となっている。
宿泊者名簿を見ると、ケネディ元大統領の父親ジョセフ・パトリックや、ロックフェラー二世、ハーバード大学のガブスレイスら著名人の名が書き連ねられていた。

ホテルに入ると、まずロビー横のブレトン・ウッズ記念室が目につく。扉には「ここで国際通貨基金と国際復興開発銀行の設立に関する協定が調印された」と刻まれたプレートが埋め込まれ、当時の会議を写した写真が飾られている。
また、客室ひとつひとつの扉にも、その部屋に泊まった各国代表団のネーム・プレートが貼られている。
代表団の名簿と部屋のプレートを照合していくうちに、面白い事に気がついた。部屋の大きさや位置が、当時の連合国の力関係や協力関係を偲ばせるからである。
まず、主催者であり会議の議長となったアメリカのモーゲンソン財務長官の部屋は、3階ロビーの奥、「プリンスの間」と呼ばれる319号室。ひろびろとした豪華な造りの部屋である。
その真下の219号室は「プリンセスの間」、これは別荘の主フランス王女の個室。ここにはイギリスのケインズ男爵夫妻が泊まっている。
モーゲンソー長官の真上、419号室にはソビエト代表のステファノス外国貿易省次官が泊まっている。
ソビエトは、結局IMF協定を批准せず現在も非加盟国であるが、当時は連合国の主要な一翼を担っており、次官は会議の副議長でもあった。
その上の部屋は、中華民国代表の孔副総統。はるばる重慶から、47人もの大代表団を率いてきた。
彼の夫人は、中国の宋慶齢名誉国家主席の姉、藹齢(あいれい)。つまり孔副総統は孫文、蒋介石の義兄にあたり、孔子の血を継ぐ名門の出である。
この会議でアメリカは、重慶政府をいかに引き立てるか苦心している。代表団を運んだのもアメリカの軍用機と軍艦、開会式には孔副総統の演説をトップに持ってきている。
当時の新聞によると、アメリカがあまりにも彼等に肩入れするので、ソビエト代表はたびたび抗議したという。
このころ中国国内では、重慶政府の国民党とソビエトが支持する延安の紅群が、激しく主導権を争っていたからである。
二間続きのスイート・ルームを割り当てられたのは、アメリカ・イギリス・ソビエト・中華民国の首席代表だけである。
ついで広い中央の部屋に泊まったのは、会議の副議長となったオーストラリアのメルビル中央銀行顧問、ベルギーのグッド蔵相、ブラジルのソウザ・コスタ蔵相である。彼らは、英連邦、ヨーロッパ、中南米の地域代表という立場にあった。
フランス代表の部屋は微妙である。
のちに首相も歴任したピエール・マンデスフランスが、ロンドンからこの会議に出席していた。
彼の部屋はそんなに大きくない。また中央からも離れている。アメリカのホワイト財務省補佐官と名時程度の待遇である。ホワイトは、のちこの会議を実質的にリードしたが、アメリカ代表団序列は12人中11番と低い。
フランス代表に対するこの扱いは、当時の戦局と関係している。
このころヨ-ロッパ戦線では、ノルマンディ上陸作戦に成功した連合軍がパリへ進撃中だった。もちろんドゴール将軍の率いる自由フランス軍も加わっている。また2ヶ月前にはアルジェに「フランス共和国臨時政府」を樹立、名実共に連合国の一員としての地位を確立しようとしていた。
しかしアメリカは、「共和国臨時政府」をまだ正式に承認していなかった。「フランス解放後」をめぐって、アイゼンハワー連合軍最高司令官とドゴールは対立していたからである。
マンデスフランスは、国家の代表ではなくフランス使節団の代表にすぎなかった。
会議に参加したのは、44の連合国とILOなど4つの国際機関。また当時ドイツに占領されていたデンマークなどもオブザーバーとして参加している。
だから250室の客室はすべてふさがり、従業員の宿舎までも代表団員に解放されたという。
この時ブレトン・ウッズに駆けつけてきた報道関係者は50人。「フィナンシャル・ニュース」「ウオールストリート・ジャーナル」などの英米紙、スペイン、スウェーデン、スイスなど中立国のアメリカ駐在記者もその中にあった。
「彼等はみな近くの農家に泊まり、毎日ホテルまで通って取材していた」
当時を知る村の住人の一人が教えてくれた。
「報道関係者の中には、枢軸国ドイツのスパイらしい人物も混じっていた」
(第1部 終)
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