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February 28, 2009

1180.ブレトン・ウッズの黄昏(15)

 「日銀には当時の資料、残ってませんでしたか?いや、燃やすのが惜しくて、数点こっそり自宅に持ち帰った記憶があります。捜してみましょう」
 こうしていくつかのベルリン情報は、35年ぶりに日の目を見る事となった。

037  「情報」は、暗号電報を解読したガリ版刷りのものと、山本参事から総裁宛の直筆の手紙の二種類があった。
 直筆の手紙はドイツのUボートによって運ばれたもので、薄い便箋に万年筆でぎっしりと書き込まれており、その数は70枚を超えていた。

 最も古い電報は、昭和18年4月17日発のものだった。「秘・本電ハ不公表分ニ付、取扱御注意相成度」の朱印が押され、「米国案ハ米国ノ巨額ノ保有金ニ依ル基金管理ニ付参加国ノ大部分ハ、本基金出資ノ為メ結局金借款等、米国ノ援助ヲ必要トシ、之ニヨリ米国ヘノ隷属化必至」と、山本参事は分析している。
 また「英国案」についても、同じ日の別電で伝えられ、さらに5月21日には、「戦後通貨問題ヲ繞(めぐ)ル英米ノ抗争要旨」が受電されている。

 この中で山本参事は、「ドイツ当局は、一見無関心を装いながら、内部では熱心に研究をすすめている。バーゼルの国際決済銀行も重大な関心をもって、両案を分析している」と、ヨーロッパの反応を伝え、「両案とも戦後における自国の優位と支配権を確立しようとする意図が明白である」と、鋭く指摘している。
 また「金問題は、米英両案とも根本的に対立しており、英国は米の金独占による世界支配の意図を極力警戒している」と、ロンドンの動きも伝えている。

 ベルリンからの電報は、これを最後に途絶えた。しかし、山本参事はさらに情報の収集につとめ、「カナダ折衷案」「米国修正案」「米国金融界の反響」「ソビエトの反応」などを、ドイツのUボートに託して日本へ届けたのである。

 「戦後通貨案」をめぐる情報の入手経路は、あと二つあった。一つは外務省による「リスボン情報」であり、もう一つは、国策通信社同盟の戦時調査室による外国短波受信である。

 「リスボン情報」は、中立国スペインの日本大使館の館員が、英米の新聞や駐在記者から得た情報を公電で送ってきたものである。
 ブレトン・ウッズ会議については、『フィナンシャル・ニュース』の記事が主に引用されている。
 協定の全文と、モーゲンソーのラジオ演説をキャッチしたのは、同盟通信社だった。電波状況が悪く、ところどころ欠けてはいるが、大部分の傍受に成功している。

 こうして日本側も、日本銀行調査局が中心となって、戦後通貨体制をめぐる連合国側の動きを、ほとんどつかんでいた。

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February 27, 2009

1179.ブレトン・ウッズの黄昏(14)

  Uボートが運んだ情報

 「ケインズとホワイトの論争ですか?私たちも当時から興味を持って注視してました」
 元日本銀行理事の吉野俊彦さんは、こう切り出した。
 「たしか、ブレトン・ウッズ協定の全文も、調印の一ヵ月後にはもう手に入れましたね」

6mcalfyls8ca5ql2ejcasooldpcakm8exwc  私はアメリカ取材出発前、日本銀行旧館にある調査局の書庫で、「ブレトン・ウッズ通貨協定と日本参加の方途」と題した行内資料を見つけた。
 「昭和21年2月」の日付けがついたこのプリントは、黄色くあせており、ところどころ破れていた。
 行内資料は、英国案(ケインズ案)と米国案(ホワイト案)の詳細な分析からはじまっていた。そして協定の全文と解説、国際経済へ果たす役割、さらには敗戦後の日本の早期参加の必要性まで論じていた。

 終戦直前、日銀調査局は大幅に縮小され、一時は100人をこえていたスタッフも、実質3人になっていた。
吉野俊彦さんはその一人で、彼の手でこの行内資料はまとめられた。

 「欧米の経済の動きについての情報は、戦時中もたえず送られてきました。ベルリンからですよ」
 資料の山に埋もれた東京八重洲の事務所で、吉野さんは当時を回想する。

 戦争中、日銀の駐在員事務所が同盟国ドイツのベルリンに置かれていた。駐在していたのは、その後調査局長を務めた山本米春参事で、彼はドイツ中央銀行をはじめ、いくつかの機関と連絡をとって情報を収集していたのである。

Eycazxxm4xcaessv3zca4ptp1wcan06eftc  「当初は、暗号電報で送ってきました。ところが最後はUボート、潜水艦ですね。それで運んできたのですよ。当時は、反枢軸国の経済動向とよんでいましたが、もちろん極秘文書です」
 吉野さんは、情報の入手経路について語る。

 しかし、ベルリン情報の現物は、日銀調査局の書庫には残ってなかった。終戦直後、占領軍の目を恐れすべて燃やしてしまったのだ。  (この項続く)

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February 26, 2009

1178.ブレトン・ウッズの黄昏(13)

 翌46年3月8日、アメリカ・ジョージア州サバンナのゼネラル・オグレソープホテルで、「基金」と「銀行」の創立総会が開催された。ここは、ブレトン・ウッズとは対照的な大西洋に臨む避寒地である。
 3月というのに初夏の暖かさで、戦後の経済再建に頭を痛めていた代表団たちの気持ちを和ませた。

034  会議には、すでに協定の批准を終えた38か国の代表と、5つの未承認国のオブザーバーが参加した。
 未承認国の一つはソビエトである。そしてこの会議を最後に、ソビエトはIMF総会に顔を見せることはなかった。

 各国の代表団の顔ぶれも変わっていた。
 アメリカは、モーゲンソーに代わって新財務長官のヴィソンが代表となり、サバンナ会議の議長となった。
 イギリスの代表は引き続きケインズだった。彼は、難産の末誕生した二つの機関に血と肉をつけ、信頼できる国際組織を作り上げようと、代表を引き受けたのである。
 しかしこの事で、ヴィソンと衝突する。

 ヴィソンは弁護士出身で、金融の専門家に対して引け目を感じていた。とくにケインズには、前年の「借款交渉」の過程で、ずいぶんやり込められたトラウマを持つ。
 彼は、サバンナ会議だけは自分の主導権で進めようと、考えていた。

 まず、懸案となっていた機関事務局の所在地については、ケインズらの反対を強引に押し切り、ワシントンに決めた。
 さらに、さまざまな議案についても、拠出金の額を武器に事務的に決めるなど、能率的に会議を運営していった。

 長い間の論争を通じて次第に友情が芽生えていた、ケインズのよき理解者ホワイトも、会議には出席していた。
 しかし、モーゲンソーという後ろ盾を失った彼は、アメリカ代表団の中でも孤立していた。

 ケインズは、失意のうちにサバンナを離れ、帰国のためワシントンへ向かう。彼はその夜行列車の中で、再び心臓発作に見舞われるのである。
 そして1か月後、イングランドの故郷ティルトンで急逝する。三度目の心臓発作だった。

250pxwhiteandkeynes_2  一方ホワイトも、IMFのアメリカ側の理事に選ばれたが、わずか1年で辞任した。そして6年後の東西冷戦のなか、プロウネル法務長官によって「共産党のスパイ」との嫌疑をかけられ、失脚した。

 ブレトン・ウッズ協定の生みの親たちの最後は、いずれも不遇だった。
 しかしIMFと世銀は、戦後の国際経済の復興と安定に大きく貢献し、金1オンス=35ドルの固定相場制にもとづく「ブレトン・ウッズ体制」は、1971年8月15日の「ニクソン・ショック」まで25年間続くのである。
 

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February 25, 2009

1177.ブレトン・ウッズの黄昏(12)

   「戦後」を買ったアメリカ

 国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世銀)が、正式に発足したのは第二次世界大戦終了後である。
 それは、ブレトン・ウッズ協定に対して、イギリスの議会だけでなくアメリカでも反対が強かったからである。

 まず両国の大企業や大銀行が反対した。同年9月28日の『ウオールストリート・ジャーナル』には、アメリカ銀行協会会長による批判記事が掲載された。また10月1日の『ニューヨーク・タイムス』にも、ニューヨーク連銀副総裁による、協定の欠陥を指摘した記事が載った。
Qzca9zqrf2caaud18scahuyefaca1te1l9c  議会では、彼ら大銀行を代弁する共和党保守派のタフト上院議員らが、「アメリカの労働者と経営者が稼いだ大切なドルを、なぜそんな基金につぎ込まなくてはならないのか」「復興銀行に大量のドルを出資しながら、わが国は何の報酬も得られない」と、反対した。

 ホワイトは、次のように反論した。

 「基金を設立しないと、非常に重大な過ちを犯すことになる。1921年に、私たちは戦争を未然に防ぐための国際機関設立を提案したが、あるグループの人たちにはばまれ、ついには今日の結果を招来した」

 さらに彼は反対者に対し、「ブレトン・ウッズ協定法案に賛成しない人は、将来歴史がこれをとがめ、告発することになるだろう」と、決め付けた。

 モーゲンソー財務長官も、彼等を「頑迷固陋な孤立主義者」と批判した。
 ニューディール派の作家や芸術家たちは、「上院と下院の議員に電報を打とう。『協定を批准せよ』と。防空壕を作るより簡単で費用はかからない。これは、戦争にうんざりしている全てのアメリカ人の特権であり、義務である」と、パンフレットで訴えた。

 協定の批准法案は、まず民主党が多数を占める下院を通過した。共和党優位の上院でも、激論の末最後は52対31で可決された。
 協定が調印されてから1年後の事である。

Hfcapwws1dca2vjt2aca9ta3ijca2jj8txc  イギリス議会では、ケインズが協定批准へむけて奮闘していた。いわゆる「ホワイト案」を弁護しなければならなかった彼にとって、それは悲劇的でさえあった。
 しかし、国際金融市場におけるロンドンの地位の低下、イギリス経済のアメリカ経済への従属、金本位・ドル基軸体制に対する議会の批判は根強く、審議もなかなか進まなかった。

 ブレトン・ウッズ協定が発効するためには、1945年12月末までに拠出金の総額65%以上を占める国々の批准が必要だった。イギリスは割当額第二位の国であり、主要国である。
 そこでアメリカは、戦時中のイギリスの対米債務の処理と戦後復興資金をエサに批准を迫った。イギリス経済は、このころ「ドル」がなければ破産寸前だったからである。

 12月、ケインズの努力で37億5000万ドルの対米金融協定が結ばれた。その条件として、ブレトン・ウッズ協定は何とかイギリス議会で批准された。協定発効期限ぎりぎりだった。

 アメリカは、37億5000万ドルで「戦後の国際経済体制」を買ったのである。(この項続く)

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February 23, 2009

1176.二月大歌舞伎

Kabukiza200902b_handbill 歌舞伎座さよなら公演のせいか、ポピュラーな演目が増えてきた。素人の私も耳にした狂言が並ぶ。
 と言う事で、今月は「ひとまく」ではなく、夜の部を全幕見る事にした。吉右衛門ファンの連れ合いのお供でもあるが。

  平物狂(らんぺいものぐるい)」

 「倭仮名在原系図(やまとかなありわらけいず)」が本題。浅田一鳥、浪岡鯨児ら複数の作者の合作による五段構成の義太夫狂言。1752(宝暦2)年、大阪の豊竹座で演じられた人形浄瑠璃が、翌年歌舞伎化された。
 もともと在原行平と海女の恋物語と、平安時代の56代天皇位継承争いの後日譚を描いた複雑なストーリだったが、歌舞伎では四段目「行平館」「奥庭」しか残ってなく、この場面の「蘭平物狂」と題して演じられる。
 行平の奴蘭平(坂東三津五郎)が、刃物を見ると狂って踊りだす場面と、奥庭で捕り手相手の大立廻りが見どころだった。
 中村翫雀が在原行平、中村福助、橋之助兄弟が夫婦役というのも面白い。もちろん兄の女形・福助が女房役だが。
 始めてみた狂言である。

   「勧帳(かんじんちょう)」

 「歌舞伎十八番の内」と頭に振ってあるように、歌舞伎舞踊劇の代表作。「ひとまく会」でも何回か鑑賞した。
 能の「安宅」をもとにした作品で、能の舞台をを模した「松羽目」で演じられた。
 割と新しい作品で、初演は1840(天保11)年の7代目市川団十郎。その後息子の9代目が、現在のような洗練された型を作り上げ、市川家の伝統芸となった。
 安宅の関での武蔵坊弁慶(中村吉右衛門)と富樫(尾上菊五郎)との山伏問答、義経(中村梅玉)への弁慶の金剛杖での折檻、弁慶の舞から飛六法まで吉右衛門の見事な芸をたっぷりと楽しんだ。これで連れ合いも満足しただろう。
 義経の家来四天王を、市川染五郎、尾上松緑、尾上菊之助、市川段四郎と豪華な顔合わせでもあった。

     「三人吉三白波(さんにんきちさともえのしらなみ)」

 これもまた有名な世話物。何回見ても役者が変わるから面白い。
 原作は7幕13場で、吉三という同じ名前を持った三人のチンピラ盗人と、それに絡む複雑怪奇な因果物語。
 今回は「大川端庚申塚の場」の一幕で、三人が始めて出会って義兄弟の契りを交わす部分だけだった。
 といってもこの場は、河竹黙阿弥の名セリフが聞ける。
 「月も朧に白魚の、箐(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持よくうかうあ~と、浮かれ烏(がらす)のただ一羽、塒へ帰けえ)る川端で・・・・・、こいつぁ春から延喜がいゝわね」と、お嬢吉三(坂東玉三郎)が七五調で。
 和尚吉三は尾上松緑、お坊吉三は市川染五郎の組み合わせ。
 短い幕だったが、まさに歌舞伎の醍醐味である。 

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February 22, 2009

1175.2月のシネマ(3)

003_640   「ロルナの祈り」

 ベルギーの巨匠、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の作品。昨年のカンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞した。

  ジャン&ピエール兄弟については、ブログ274号('06.2.26)で詳しく紹介したのが、50代の二人はもともとドキュメンタリー作家。原発で働いて貯めたお金で撮影機材を買い、労働者アパートに住み込んで地域開発問題、労働運動、移民問題を撮り続けてきた。

 10年ほど前から劇映画の製作を始め、'99年のカンヌでパルムドールと主演女優賞(「ロゼッタ」)、'02年主演男優賞(「息子のまなざし」)、'05年は再びパルムドール(「ある子供」)、そして今回と、公開した作品は次々と受賞している。

331785_100x100_001  この作品は、ベルギーの国籍を獲る為に偽装結婚したアルバニアの移民女性の、偽りの中から生まれた本物の愛を描くヒューマン・ラブストーリー。
 コソボ難民出身の新人女優、アルタ・ドブシロの体当たりの演技が見どころである。

004_640    「三国志」

 「レッドクリフ」は、中国の歴史小説「三国志演義」の中のひとつの戦いが舞台だが、こちらは登場する数百人のキャラクターの中の一人を主人公に描く。
 乱世に生きた伝説の男、偉大な蜀の英雄と言われた趙雲がその人である。

 「レッドクリフ」でも、蜀の君主劉備の赤子を、敵陣の中からたった一人で救うエピソードが登場するが、今回はこの英雄譚から物語はスタートする。
20081204010fl00010viewrsz150x  そして関羽、張飛など仲間の英雄豪傑が戦死したあと、諸葛孔明の戦術によって、ただ一人10万の魏の軍の中に突き進んでいく。

 その趙雲を演ずるのは香港のトップ・スター、アンディ・ラウ(「インファナル・アフェア」シリーズ)。
Note_photo03  小説には登場してないが、この作品のため曹操の孫娘・曹嬰を登場させ、マギー・Q(「ダイハード4.0」)が演ずる。
 すこぶる腕の立つ魏の王女と趙雲との必死の戦いが見もの。

 エキストラとして出演する、数万の中国人民解放軍兵士はこの手の映画では御馴染み。

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   「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

 2時間を超える長大作を飽きせず見せたのは、デビッド・フインチャー監督(「セブン」)と脚本のエリック・ロス(「フォレスト・ガンプ/一期一会」)の腕によるもの。
 そしてブラッド・ピットとケイト・ブランシェットという二人のトップ・スターの賜物だろう。

 80歳で生まれ、若返っていく男の物語だが、幼馴染だった6歳の老人と5歳の少女が結ばれるのは、二人の年が交差する40代というところが、愛の無常観をもたらす。
330912view002330912_100x100_001   互いを慈しみ深く愛するが、時間はそれを引き裂く。時を超えても生き続ける愛、だから人生は素晴らしい、と映画は語る。

 作品賞、監督賞、主演男優賞など、今年のアカデミー賞では13部門にノミネイトされている。さてその結果は、明日発表される。

 (アカデミー賞は、日本作品がダブル受賞したため、NHKテレビのニュースをはじめ、新聞、週刊誌、ウエブが溢れるような情報をを流しているので、このブログではもう触れる事はない。)

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February 21, 2009

1174.「薩摩焼」特別展

099_640  世界に「SATSUMA」の名を知らしめたのは、1867(慶応3)年のパリ万国博覧会。徳川幕府に対抗して薩摩藩は、「日本薩州政府」の名で500箱を超える品々を出品した。
 なかでも陶器は観客の耳目を集め、11年後の第3回パリ万博ではセーブル陶器博物館の作品と薩摩焼との交換も行われた。

 一昨年、パリ万博140年を記念してセーブル美術館で開催されたのが「薩摩焼パリ伝統展」。その帰朝展が先週末から、江戸東京博物館で開催されている。

101_2100_2  出展されている薩摩焼は、フランス国立陶磁器美術館(セーブル美術館)蔵の「色絵龍文唐子三脚香炉」(左写真)など200点。400年の伝統の美は、さすが見応えがある。

 薩摩焼のルーツは朝鮮(韓国)にある。有田や伊万里と同じように、1592(文禄元)年~1598(慶長3)年の朝鮮出兵から撤退の折、陶工を連れ戻った事から始まる。
 薩摩藩では、彼等朝鮮陶工を保護し、職能集団として育て産業の発展を図った。
 以来400年、ここから数々の逸品が生まれたのである。

096097  薩摩焼には大きく3つの系統がある。連行された陶工たちの薩摩上陸地と、深く関係しているのが面白い。

 左の「金襴手梅菊文筒型大花瓶」は、苗代川系の白薩摩焼。東シナ海の串木野に上陸した陶工たちは、原料の土を求めて苗代川に定着した。
 12代沈壽官の金襴手大花瓶がウイーン万国博覧会(1873年)に出品されるなど、薩摩を代表する窯が今も健在である。

 右上は竪野系の「肩衝茶入」。鹿児島湾奥に上陸した陶工たちの窯である。当時の藩主、島津義弘はリーダーの一人を瀬戸に送り、上方の茶陶の技術を学ばせている。
 幕末になると藩主斉彬が、集成館事業(洋式工業)のひとつとして、磯の別邸に「御庭窯」を開業するなど、藩と深い関係を持った系統である。
 一族の先祖がこの系統の窯を開いている事もあって、薩摩焼の中では親しみある作品が多い。

 ほか朝鮮陶工では、刷毛目や三彩の技法で知られている龍門司系。磁器では平佐系がある。

 095 今回の東京展では、特別出品として篤姫所用の薩摩焼15点が並んでいる。
 左の「錦手獅子香炉」は、養父の斉彬が開いた「磯御庭焼」のもので、多分、斉彬公が嫁入り道具として持たせたのであろう。
 このほか竪野焼の「錦手六角香合」や苗代川焼の「錦手人形」など可愛い品々が並んでいる。
 いずれも徳川記念財団蔵の薩摩焼である。

 また今回は併設展として、「鹿児島の現代陶芸~伝統と創作~」も同じ会場で開かれている。
 長太郎窯、荒木陶窯、沈壽官窯、慶田窯、日置南州窯、紀秀窯などで現在も活躍している作家たちの作品である。
 66点の中には、友人・知人の作品も多く、懐かしく鑑賞した。

 「薩摩焼~パリと篤姫を魅了した伝統の美~」展は、3月22日まで「江戸東京博物館」(両国駅下車)で。 

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February 20, 2009

1173.ひとまく映画会

 ひとまく歌舞伎仲間のうち、映画好きが3ヶ月に1回開催する「映画鑑賞会」。懐かしい名画を解説付き、2本立てで見る。
 DVDによる再生だが、結構大きなスクリーンに投影するのでミニシアター並みの迫力はある。

 第10回目の先日は、ミステリー映画の傑作「ナイル殺人事件」と、ピエトロ・ジェルミの「刑事」。
 圓尾ナビゲーターと世話人の解説を資料に、紹介しよう。
 

D112617604    「ナイル殺人事件」

 左のポスターにあるように、原作はアガサ・クリスティが1937年に発表した「Death on the Nile」(「ナイルに死す」)の映画化。(1978年公開)
 「邦題」は「オリエント急行殺人事件」」に続いての「殺人事件シリーズ」で、この後も「クリスタル殺人事件」('80)「地中海殺人事件」('82)「ドーバー海峡殺人事件]('84)「死海殺人事件」('88)等々が公開された。
 
 謎を解く名探偵ポアロ役も、この作品はピーター・ユスチノフが演ずる。「スパルタクス」('60)「トプカピ」('64)でアカデミー賞助演男優賞を受賞したユスチノフは、名前通りのロシア系イギリス人。父親はM15の諜報員、母親がロシア人のバレリーナで画家という一家に育った彼は、語学の天才であり小説家・脚本家・劇作家としても活躍、ナイトの爵位を持つ。
 「ナイル」「地中海」「死海」と、3本の作品でポアロを演じて評判となり、その後のテレビ・シリーズは彼がポアロを独占した。
 
Nile_3  ナイル川を航行する豪華客船を舞台にした「殺人事件」は、オールスター・キャストである。
 最初に殺されたロイス・チャイルズ(富豪令嬢)ほか、登場人物は皆「殺人の動機」を持つ。
 ミア・ファロー(恋人を奪われた令嬢の友人)、ジエーン・バーキン(令嬢に冷たく扱われるメイド)、マギー・スミス(令嬢一家に怨みを抱く看護婦)、アンジェラ・ランズベリー(令嬢に訴訟を仕掛けられそうな女流作家)、そして元布施明夫人のオリビア・ハッセーも怪しい。
 男優陣もジョージ・ケネディ(財産を掠めようとする令嬢の叔父)に、サイモン・マッコーキンデール(令嬢の新婚夫)とくる。

Nile_1 そして謎解きは、ポアロと元イギリス諜報員の友人(デイビット・ニイブン)。

 「登場人物の誰が犯人であっても、おかしくない」「全員を一同に集めての謎解き」「真犯人の自殺」
 アガサ・クリスティの三つの約束事が、きちんと守られた映画だった。

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   「刑 事」

 クラウディア・カルディナーレが、警察に連行される夫を乗せた車を追う正面からのカット。
 そこに 「アモーレnote アモーレnote アモーレnote アモーレミヨnote」と、あの有名な音楽が流れるラスト。
 ストーリーの細部は忘れたが、このシーンだけは覚えている。半世紀前に見たイタリア映画である。

 「鉄道員]('56)「わらの男」('58)に続く「刑事]('59)は、イタリア・ネオ・リアリズムを代表する作品と言われている。いずれも、ピエトロ・ジェルミが監督・主演した映画だった。
 C・E・ガッタの小説「ナルラーナ街の奇怪な惨劇」をもとに、当時のローマの市井の人々の生活が描かれる。
 ジェルミの演ずるヒューマン溢れる警部と、ドジな部下の刑事たち。人間描写も秀逸で、日本の小津安二郎を思い起こす。

 カルディナーレにとっては、デビュー作といってもいい21歳の時の作品である。このあと「ビアンカ]('61)「ブーベの恋人]('63)などで評判になり、ハリウッドに進出する。
 '63年の「山猫」、'74年の「家族の肖像」の印象が深い。現在71歳、まだ現役である。

 他にエレオノーラ・ロッシ・ドラゴ(「激しい季節」)、サーロ・ウルッイ(「わらの男」)。

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February 19, 2009

1172.ブレトン・ウッズの黄昏(11)

 もうひとつの問題は、機関の所在地であった。協定第13条1項には、「基金の主たる事務所は、最大の拠出金割当額をもつ加盟国の領土内に置くものとする」と規定されている。
030028   この条項は、モーゲンソー財務長官が強硬に主張した部分である。彼はすでに、機関の事務局をワシントンにおき、国際通貨基金も世界銀行も、アメリカ財務省の監視下に置こうと考えていたのである。

 この問題に最後まで抵抗したのは、イギリスである。ロンドンは無理としても、せめてワシントンから離れたところに事務局を置くべきだと主張した。

 しかし会議は、アメリカ財務省の一役人にすぎないホワイトにリードされていた。モーゲンソーが全体を握り、彼が第一委員会を抑える。
 巨額の借金をアメリカに負っているイギリスは、世界一の経済理論家ケインズを送ったとしても、最後はアメリカに妥協せざるを得ない。
 機関所在地問題にしても、「態度保留」が精一杯の抵抗だった。

Keynes  7月22日の最後の演説の名誉だけは、ケインズに与えられた。再び大ホールを埋めた700人を前にして、彼は協定の承認を求めた。

 「私は、この歴史的な会議において、最終協定の承認を提案する役割を与えられたことを光栄に思います。
 議長閣下、この会議に出席したわれわれ代表団は、きわめて困難な仕事を達成しようと努力してまいりました。それは、各人が勝手に、特殊な立場でやったのではありません。我々に与えられた仕事は、どの国にも通用する共通の尺度、規律、規則を見つけることでした。
 ・・・・・・・・・
 最後に我々は、ここブレトン・ウッズで、この最終協定に含まれている内容以上に有意義な仕事を完成させました。それは、44カ国が、建設的な仕事を親善と調和のうちに協力して行えることを証明した事です。
 それを可能だと信じた人はわずかでした。これと同じ事が、より大きな仕事でも継続出来るならば、世界にとって希望があります。
 ともかく我々は、固く結ばれた新しい友情を抱いて、祖国へむかって散会しようとしています。我々は、協力することを学んできました。もし我々が、それを続ける事が出来るならば、我々の生涯のほとんどを占めたあの悪夢(戦争)は、消え去るでっしょう。
 人間の兄弟のよしみは、言葉以上になるに違いありません。

 議長閣下、私は最終協定の承認を提案いたします。」(ハロルド著『ケインズの生涯』)

019  700人が総立ちとなり、繰り返し拍手をこの偉大な碩学に送った。誰ともなく歌声が起こった。
 「彼は素敵ないい男だから・・・・・」

018  協定の調印は、大ホール手前の小部屋で行われた。モーゲンソーをはじめ、ケインズ、ステファノフ、孔、マンデスフランスらが、マホガニィの木で作られた丸テーブルの上で、それぞれ協定書にサインした。

 その夜、モーゲンソー議長は、「連合国国際通貨基金協定と復興開発銀行設立計画」の調印を、ラジオを通じて全世界に発表した。
 短波放送で流されたこの演説を、枢軸国日本・ドイツの諜報機関も、必死に録音していたのである。  (第2部終り)

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February 18, 2009

1171.ブレトン・ウッズの黄昏(10)

   彼は素敵ないい男

 「加盟国の拠出金によって基金を設け、国際通貨の安定をはかる。そのことが貿易の拡大につながる」
 国際通貨基金の理念に対しては、各国とも異論はなかった。

 ただ、インドのライスマン代表が、イギリスによるインド在外資産の凍結を非難し、この原案が大国中心主義だと批判した。そしてインドは、「植民地・半植民地のためのもう一つの機構設立」を提案したが、絶対多数で否決された。
 またメキシコ代表の一人は、「金とそれに代わるドルが国際通貨の基軸となっている。銀も加え金銀本位制にすべきである」と主張した。しかし、これは誰も問題にしなかった。

 会議は、事務局の予定を2日間延長し22日まで続行された。それは、基金への拠出金の割当額に対する各国の不満が原因である。
 拠出金の割当額は、国際収支で赤字を出した時の借入金の額(資金引き出し権)の基準となる。さらに新しい国際経済機構の発言権・投票権の割合にも結びつく。
 それだけに、各国とも総額の中での比率を高めたがっていた。

 原案は、拠出金の割当額を、戦前の貿易額と現在の金保有高をもとに計算していた。当然連合国に武器を売り、いまでは世界の金の半分以上を所有する、アメリカの割当額は大きかった。
 またイギリスも、戦前スターリング・ポンド地域間の特恵貿易で栄えていたため、他の国よりは有利だった。
 さらに中華民国は、アメリカの戦後戦略の含みもあって、実力以上の額となっていた。

Img5ef38ec6zik2zj  まず、ソビエトが10億ドルの原案に対して、20%増を要求した。その一方で「戦後復興と低開発地域の経済開発のための銀行」への出資は、9億ドルが限度だと主張した。
 とくにソビエト代表団は、「モスクワから適切な指示と自由裁量が与えられていない」(ケインズ)ため、たびたび議事の混乱を招いた。
 またソビエトは、「中国の割当額はあまりにもイデオロギー的だ」として、中華民国の減額を要求した。

 フランス、オランダ、ユーゴ、ニュージランド、エジプトも増額を希望し、インドの増額を英連邦の立場からイギリスが支持した。

 拠出金割当を決める分科会は、難航した。ついにアメリカが、基金総額を10%増やして88億ドルにすることで妥協した。
 もちろんアメリカも原案より増やして27億5000万ドル、イギリス13億、ソビエト12億、中華民国5億5000、フランス4億5000、インド・ビルマ4億、カナダ3億、等々と決まった。

 拠出金の割当額は、当時の各国の経済力だけでなく、連合国の軍事を含めた地域的な力関係を示している。
 アメリカは、自国が最高額であるだけでなく、その影響下にある中南米諸国と中華民国の額を加えると、国際通貨基金の過半数を占め完全に主導権を握ることができる。

Da60b5b0 220pxcharles_de_gaulle_1943_tunis_2  イギリスは、カナダ、オーストラリアをはじめ、事実上の植民地である英連邦諸国の増額に努めたが、総額はアメリカ一国にもおよばなかった。
 フランスも、戦前の貿易額を考えると、イギリスにつぐ三大国のひとつであって当然だが、現在自国領土が戦場になっている上、アメリカと微妙な関係にあったため中華民国以下に甘んじている。(この項続く)

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February 17, 2009

1170.ブレトン・ウッズの黄昏(9)

Brettonwoods  実質的な討議は、翌々日の3日から始まった。アメリカ、イギリスを中心とする専門家会議で、前の年から検討され、この4月に正式発表された「国際通貨基金の設立に関する専門家の共同声明」が原案である。
 この案は会議の直前、1週間にわたって開かれたアトランテック・シティでの専門家木々でさらに煮詰められていた。ホワイトとケインズの間でも、一定の妥協が成立していたのである。

 会議は、三つの委員会によって進められた。
 第一は「国際通貨基金」を扱う委員会で、ホワイトが議長になった。
 第二の委員会は、「国際銀行」がテーマで、ケインズが議長を引き受けた。
 第三は、「国際金融に関する他の諸問題」を担当し、メキシコのスワレズ蔵相が議長となった。
 具体的な討議の展開は、さらに細かくわけられた分科会が舞台となた。
 とくに、この会議の中心議題である国際通貨基金委員会は、「基金の目的・政策・拠出金割当」「基金の運営」「基金の組織」「基金の形態」の四つの分科会を持っていた。

250pxwhiteandkeynes  委員会の議長となったホワイトとケインズは、分科会には出席せず自室に控えていた。分科会で論争が生じた時、いつでも質疑に応じる態勢をとったのである。
 ここでは、二人が共同戦線をくみ、政治家たちの無理な注文にも、専門家として丁寧に応えた。

 連日どこかの部屋で必ず会議は開かれた。例えば、第一委員会は3日から19日まで8回の会議を開き、分科会はのべ26回行われた。
 第二委員会も、10日から21日まで7回の会議を開く。
 小国の代表たちは、いくつかの会議を掛け持ちしているため、ホテルの廊下を走り回った。
 小さなバーは開いていたが、他に息抜きの場のない山奥のため、全員が討議に熱中した。
 しかし、代表たちにとっては、毎日がたいへんな重労働であった。

 ケインズは、ロンドンに住む親友のアンダーソン卿に、次のような手紙を送っている。

 「ここでの仕事の重圧は、まったく信じられないほどのものです。それは、あたかも3、4週間のうちに、いくつかの各省委員会の仕事をやり、法案を起草し、二つの込入った法案を議会で通過させるのと同じ仕事です。
 委員の数は、全体で200人を超えていましたし、彼らは音響効果の悪いいくつかの部屋で、マイクロフォンを通してがなり立てていました。
 出席者の多くは、議長をふくめて英語が不十分で、みな自国の新聞にいい記事が掲載されるよう、自説を主張してました」(ハロッド著『ケインズの生涯』)

 委員会の討議は、真夜中まで続いたこともある。真夜中の午前3時半ようやく休憩、朝9時半再開という強行軍もしばしばだった。
 ホワイトは「この4週間、一晩5時間以上の睡眠を撮ったことはなかった」とケインズにこぼしている。

 ケインズは、当時61歳である。同行の医師の命令で、夕食後の委員会出席は遠慮していた。
 しかし19日、いそいで階段を駆け上ろうとして心臓発作を起こした。このニュースは、ロンドンの新聞に報じられ、英国民を心配させたが、大事に至らずに済んだ。 

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February 16, 2009

1169.ブレトン・ウッズの黄昏(8)

   不眠不休の国際会議

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   ブレトン・ウッズ会議は、1944年7月1日の午後、ヘンリー・モーゲンソー議長の威厳に満ちた開会宣言で始まった。
 マウント・ワシントンホテル3階ロビーの奥にある大ホールは、700人以上の代表団・専門家・報道関係者で埋まる。

 ホールの一段高い舞台に議長団が並び、その背後に44カ国の国旗が飾られている。
025_2   各国の代表達は、白い小さな木に椅子に窮屈そうに座って、つぎつぎと続く演説に耳を傾けた。

Fdrfiresidechat2_2  主催者であるルーズベルト大統領は、会議に出席してはいない。彼は、この20日に開かれる民主党大統領候補指名大会にむけて、全国を遊説中だった。
 そのためこの会議の事務局は、19日までに協定の調印を終え、大統領候補指名に花を添えようと目論んでいた。

 議長のモーゲンソー財務長官は、ルーズベルトの無二の親友である。同じニューヨーク州ダッチェス郡出身で、ニュー・ディール派の理論家でもある。保守派の代表、ハル国務長官より大統領の新任が厚い。

 のちに彼は、本来国務省の仕事である対外政策にまで手を出し、「ドイツ解体計画ーモーゲンソー・プラン」を発表した。
 このプランは、ドイツ領土の南北二分割、重工業施設の破壊と農業国家化をめざしたもので、ハル国務長官やスチムソン陸軍長官に「盲目的な復讐計画」と批判されている。 
 そしてルーズベルトの死後は、大統領に殉じて財務長官の地位を捨てた。モ-ゲンソーは、ルーズベルトの影武者の役を果たしていたのである。

 開会宣言に続いて、大統領からのメッセージも、モーゲンソーによって代読された。

 「世界経済は、今も休みなく活動を続けている。その世界経済を健全に発展させることによって、はじめて各国の国民生活の水準を、我々の願い通りに向上させる事ができる。
 そのような世界経済を築きあげるには、国際通貨と金融について、各国による一定の合意と協力が必要となるだろう」

 ついで、中華民国代表の孔副総統が、各国の出席者を代表して基調演説に立った。

 「すでに、わが連合国側は勝利を目前にしている。この明るい展望の中で、ルーズベルト大統領が、戦後世界経済の方向を決める会議を呼びかけた意義あ大きい。
 通貨問題に対する各国の協力こそが、世界平和確立と繁栄の道である」

 さらに、チェコ代表のフェアラベント蔵相も、連合国の経済協力を呼びかけ、万雷の拍手のなかで開会式を終えた。(この項続く)  

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February 15, 2009

1168.ブレトン・ウッズの黄昏(7)

Keynes_2  一方イギリスは、アメリカ案よりひと月早く、「国際清算同盟案」を発表した。いわゆるケインズ案とよばれるものである。

00600195  ケインズは、『一般理論』を公刊して「ケインズ経済学」を確立したあと、イギリス大蔵省の顧問となり、数々の対外経済交渉を指導してきた。その間、同僚のロビンズやミードらと「戦後の国際通貨と金融制度の改革案」を練っていた。

 ケインズは、「戦後の国際経済社会では、イギリスもアメリカとともに指導的役割をになうべきだ」と、考えていた。
 そこで彼は、「清算同盟」と名付けた一種の世界中央銀行を設立し、「バンコール」とよばれる新しい国際通貨を発行しようと考えたのである。

 これまでは、金が唯一の、最終的な国際決済手段だった。しかしその金は、両大戦を通じてヨーロッパから流出し、ほとんどアメリカの手に集中している。
 だから戦後の国際貿易復活のため、とくにイギリスにとっては新しい国際決済手段が必要だったのである。

 「バンコール」の発行は、「無」から「有」を生み出すアイデアである。加盟国はバンコール預金を持ち、各国の国際収支の黒字・赤字に応じて預金を移動させる。
 黒字国の黒字が一定の割合をこえると、為替レートを切り上げ海外援助などの義務を課する案になっている。

 ホワイト案が、金為替本位制であるのに対して、ケインズ案は、国際的な管理通貨制である。
 イギリスはバンコール預金によって、金や外貨がなくてもある程度の輸入を確保できる。そして黒字国の義務条項で、アメリカをしばろうとしたのである。

 国際通貨体制についての案は、他にフランス案、カナダ案もあったが、中心はホワイト・ケインズの両案であった。
 アメリカでもイギリスでも、相手国の案をめぐって激しい議論が起こった。
 それは、戦後国際経済の主導権をめぐる「ドル」と「ポンド」の闘いでもあった。

 この年の9月、ケインズはワシントンにむかった。「安定基金」と「清算同盟」の二人の創案者の直接対決、国際金融専門家会議が開催されたのである。

 二人の闘いは強烈だった。
 ホワイトが爵位をもつケインズを「殿下!」と皮肉ると、ケインズは「金持ちの横暴」と怒鳴った。
 
 「両者は、時に罵声を浴びせあい、書類を床に投げつけ、どちらかが席を立って部屋を出てしまうこともあった。他の列席者は、その場にとどまって喧嘩を鎮めることがしばしばであった」(ガードナー著『スターリング・ドル外交』)

 しかし、二人の闘いはホワイトの勝利、「ドル」の勝利に終わった。経済学者としての名声も頭脳も、力を背景とする国際交渉の場においては、成果をあげるのは難しかった。
 当時イギリスは、対独戦のため120億ドルにのぼる借金を、アメリカに負っていたのである。

 1944年4月、ホワイト案を起訴にした「国際通貨基金の設立に関する専門家の共同声明」が発表された。
 これをうけて、ルーズベルト大統領は、ブレトン・ウッズ会議を招集した。

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February 14, 2009

1167.ブレトン・ウッズの黄昏(6)

   「殿下」と「金持ち」との戦い

 「諸君は、あの賢い人物に誑かされないようにしたまえ」と、ホワイトを中心とするアメリカ側は身がまえ、「相手は金持ちですが、こちらには頭脳があります」と、イギリス側はケインズを中心に策を練る。

Keynes027   ブレトン・ウッズ会議より9ヶ月前、ワシントンでは協定の原案をめぐってアメリカとイギリスが激しく対立していた。
 それは、新進気鋭の経済官僚(写真右・ハリー・D・ホワイト)と、老練な経済学者(写真左・ジョン・M・ケインズ)との闘いでもあった。

 戦後の国際経済体制についての構想は、アメリカが大戦に参加する以前から練られていた。
 アメリカはハル国務長官、ウエルズ次官を中心とする国務省グループ、モーゲンソー財務長官、ホワイト次官補(国際金融問題担当)の財務省グループ、それにウォーレス経済防衛局次長らの3つのグループが、それぞれ独自の案を考えていた。
 しかし、史上初の三選をはたしたルーズベルト大統領は、腹心のモーゲンソー・グループの考えを支持した。
 そしてホワイト次官に、具体的な草案の起草を命じた。

 ホワイトは、財務省内部ですい星のごとく進出してきた若手官僚である。
 彼は10年ほど前に、アメリカ中西部の名もない大学を卒業して、ワシントンに出てきた。頭の回転は速く、非常に根気強かった。その一方では、攻撃的で短気、権力を求めて冷酷にふるまう野心家とも評されていた。

 ホワイトの起草した案は、「各国からの拠出金による安定基金の設立」が、柱となっていた。この基金によって為替相場の変動を抑え、通貨の価値を安定させるのである。
 この考えは、第一次世界大戦後の激しい為替相場の変動、投機や銀行倒産などの経済混乱の反省のうえに立っていた。
 そして拠出金は、金と自国通貨や政府証券を一定の割合で出す方法だが、その計算基準はドルだった。

 たてまえとしては、金に対し各国の通貨がそれぞれ比率を出すが、金とドルとの価値が固定されることで、各国通貨はドルとリンクする。
 つまり、「ドル」が国際通貨の基軸となることで、世界貿易の拡大をはかっていくという案だった。

 これは、「国際金融の神殿から高利貸しを追放して」(モーゲンソー財務長官の協定調印後のラジオ放送)、ロンドンのシティやウォール街ではなく、ワシントンのアメリカ政府が金融を管理する、トイウニュー・ディール派の思想に基づいていた。

 ホワイト案は、銀行や大企業が支持する共和党の圧力で何度か修正を加えられたが、1943年4月正式のアメリカ案として公表される。(この項続く)
 

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February 13, 2009

1166.道産酒の会

February  北海道新聞によれば、一昨日閉会した「さっぽろ雪まつり」の観客数は208万人。例年を8万人上回る人出だったと伝えている。
 メインの大通りは、円高で海外からの観光客が減ったが、第二会場のドームが、33万8千と予想以上の人出で賑わったそうだ。

 こんなニュースから始まった今年最初の「東京道産酒の会」、199回目を迎える。
 昨夜も、北海道を愛する仲間が集まり、北海道の食材であつらえた肴と道産酒でひとときを楽しんだ。

 道産のお酒は「北の誉」の純米酒。佐々木会員から「日本酒度」についてのショート・スピーチ。
 酒度とは、比重を表しているものでアルコール発酵が進むと軽くなる。つまりプラスの数字が高くなるほど、辛口なのだ。一方米の糖分が残っていると、重くなるのでマイナスの数字で表すとのこと。
 今回のお酒はプラス2度、熱燗に丁度良い。

 メインのスピーチは、村上会員の「九死に一生を得た」体験談。
 昨年の11月、新聞でも報じられたが「日本人ツアー客を乗せたバスが沼に転落、1名死亡11名重軽傷~マレーシアで」の事故。この中でたった一人怪我もなく、同行者の救助にあたったのが彼。
 マレーシアのマラッカからシンガポールへ向かう高速道路で後続車に追突され、車は頭から道路脇の沼に墜落した。
 彼はたまたま運転席の真後ろに座っていたため、泥水がクッションとなってダメージが少なかったのが幸いした。
 最後部に乗っていた男性は頭を打って亡くなり、他の皆さんも骨折などの重傷を負った。
 海外旅行中の事故に対し、どうアクションを起したか、貴重なお話を披露してもらった。

 毎回年初めの例会では、小林会員による「サラリーマン川柳」の選句。恒例の第一生命の「サラ川コンクール100選」から、会員にふさわしい句が紹介された。
 「胸よりも 前に出るなと 腹に言う」
 「円高を 実感したいが 円が無い」
 「円下げて! ドル上げないで 株上げて!」
 そして選者の句、
 「裁判員 日当貰って 居眠りし」
 選者は、元検事で現弁護士なのだ。

 昨夜のミュージックは、ゲストとしてヴァイオリニストの小笠原伸子さんをお招きして、中山育美さんのピアノでヴィバルディの「四季」から「冬」、シャンソンの「白い恋人」、メンデルスゾーンの「春の歌」。
024_640  小笠原さんは、昨年9月の例会でも演奏してもらったバロック音楽の名演奏家。横浜バロック室内合奏団のコンサートマスターでもある。

 昨夜の酒の肴は、「烏賊の酒盗」「真鱈昆布しめ」「ほっけ一干し」「公魚香り揚げ」「鮭のおにぎり」「馬鈴薯の味噌汁」と北海道づくし。

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February 12, 2009

1165.焼酎バー「黒瀬」(103)

Photo このところ、焼酎の話題が途絶えていた。焼酎ブームも落ち着き、定着してきたからかもしれない。
 そんな折、ふるさとから新しい銘柄の本格焼酎が届いた。こちらでは手に入りにくいかもしれないが、いくつかは「黒瀬」にも置いてあるのでPRしておこう。

016_640  わがふるさとは「南さつま市」、九州西南端にある静かな農漁村である。市内には7つの焼酎蔵元があり、また九州・中四国の蔵で活躍する「黒瀬杜氏」と「阿多杜氏」の村がある。
 この地が、本格焼酎の故郷といわれる所以である。

 そのうち少年時代に過ごした旧萬世町には4つの蔵元があり、なかでも萬世酒造(旧森田酒造)は小学校登下校路の途中にあったため、いつも芋焼酎の香りを楽しみ!!ながら通っていた。

 その萬世酒造が、吹上浜の松林砂丘に新しい蔵を築いたのが2年前。ここで生まれた「松鳴館」が、日本一の本格焼酎に選ばれ、私たちも鼻を高くした。

020_640  届いた焼酎はこの萬世酒造の6銘柄。3本だけ封を切ったので、帯に書かれたコメントを紹介しよう。

 「薩摩萬世」

 「薩摩萬世」は、南薩摩ならではのさつまいもと、南薩摩ならではの杜氏の匠が、かめ壺の中で響和しあった逸品です。
 白砂青松の酒蔵で生まれた本品は、その名の通り世代を越え時代を越え、なつかしく飲みつがれるにふさわしい本格焼酎です。
 コクと風味の冴えも萬世ならでは、お湯割り、水割り、ロック、あなたのお好みでお楽しみください。

 「黒壱・赤」

 薩摩半島南端、池田湖の西、開聞岳北西の地。光と風の町、頴娃町の特産品「頴娃紫芋」にこだわり、黒瀬杜氏が黒麹を巧みにあやつり、一本一本丁寧に仕込んだ黒壱の姉妹品、限定醸造「黒壱・赤」。
 頴娃紫特有の柔らかな甘み、穏やかな口当たり。
 ロック・水割りで甘みを、お湯割りで風味を、ぜひお楽しみください。

 「蔵多山」

022023   「蔵多山」は、黒麹造りを得意とする熟練の黒瀬杜氏が作り上げた、こだわりの本格芋焼酎です。
 地元の農家の手で大切に育てられたさつまいもを、昔ながらのかめ壺で丹念に仕込み、木桶蒸留器で蒸留しました。
 さつまいもが持つ甘みと、やわらかでふくよかな味わいを、心ゆくまでお楽しみください。

 上記3銘柄は、1800mlで2500円程度。
 詳しくは、「薩摩萬世・松鳴館」 ℡0993-52-0648
       〒897-1123 南さつま市加世田高橋1940-25

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February 11, 2009

1264.2月のシネマ(2)

001_640331238_100x100_001331238_100x100_006  「マンマ・ミーア!」

 '99年ロンドン公演以来10年、全世界170都市、3000万を超える観客を動員した「ミュージカル」の映画化。
 「マンマ・ミーア」「ダンシング・クイーン」「チキチータ」など御馴染みのABBAのヒット曲が流れる中、エーゲ海のある小島の2日間が、楽しく繰り広げられる。
 主人公のシングル・マザーは、ハリウッドトップの演技派女優メリル・ストリーブ。今年60歳になるオスカー女優が、歌って踊って恋をする。
 結婚式を前にした娘は、アマンダ・セイフライド(「美しい人]'05)。バージンロードを父親にと、母が「ヤッタ!」3人の「らしき人」を島に呼ぶ。
 父親候補がピアース・ブロスナン(5代目ジェームズ・ポンド役)、コリン・ファース(「ブリジッド・ジョーンズの日記]'01)、ステラン・スカルスガルド(「宮廷画家ゴヤは見た]'06)の3人。20年ぶりに昔の恋人?ストリーブに会うというお話。
 監督、脚本は舞台のミュージカルと同じ、イギリスのフィリダ・ロイドとキャサリン・ジョンソンのコンビ。
 見た人全てをハッピーにする家族向け映画。

_640  「エレジー」

 20081209002fl00002viewrsz150x 「未来を求める女」と「未来を恐れる男」の恋物語。中高年男性必見の作品。
 快楽主義者の老教養人が、大学の教え子の"芸術品"のような完璧な肉体と、うちに秘めた情熱にメロメロになってしまう。
 年の差30歳、そこの孤独と肉欲と生と死が込められる。
 老教授役は、「ガンジー」「しんどらーのリスト」のオスカー俳優ベン・キングスレー。イギリスのナイトの称号持つ。
 からだもこころも美しい女子学生は、スペインを代表する女優 ベネロベ・クルス。「ボルベール<帰郷>」('06)でカンヌ国際映画祭最優秀主演女優賞。
 原作は、現代アメリカ文学界の巨匠フイリップス・ロスの短編。スペインの女流監督イサベル・コイシェ(「死ぬまでにしたい10のこと」)が大人の愛の物語を描いた。

002_640_2 「20世紀少年」 

332026_100x100_008_2332026view001_2  発行部数2500万、世界12カ国で翻訳出版されている浦沢直樹のコミックの映画化。第2章は「最後の希望」。
 昨年夏に公開された第1章「終りの始まり」には、小学生から大学生まで、そして中年までも押しかけたから、今回も少年・青年・中年推薦映画と指定しておこう。
 オウムのような宗教集団が権力を握り、サリンのような毒を世界中に撒いて人類は滅びていく。
 中年になった昔の小学校仲間たち、さてどう闘っていくのか。「太陽の塔」ならぬ「ともだちの塔」が、シンボリックに描かれる。
監督・出演者はほぼ前回と同じ。ブログ1031号('08.09.10)で紹介してあるので、今回は省略する。
 最終回の第3章は、今年の夏公開されるそうだ。
 

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February 10, 2009

1163.2月のシネマ

046_640331776view002  「チェ 39歳別れの手紙」

 革命の英雄チェ・ゲバラを描いた2部作の後編。キューバのカストロに別れの手紙書いて、ボリビアに潜入したチェ、そして独裁政権に捕まり処刑されるまでの341日の「旅物語」である。
 ブログ1146号(09.01.22)で、主役のベニチオ・デル・トロや監督のスティーヴン・ソダバーグの事は紹介したので、今回は省く。
 今回は「生と死」の死、「成功と失敗」の失敗、「光と影」の影を、スクリーンで体験する。
 それだけに前編より、より感動が深い。ゲバラを決して偶像化しなかったソダーバーグ監督の腕によるもの。

047_640330798_100x100_009  「007 慰めの報酬」

 007シリーズ第22作目。前回に続いてダニエル・クレイグが007役である。
 ブログ524号('06.12.08)で「カジノ・ロワイヤル」を紹介した折、この青い目のブロンドは「悩めるポンド」だと書いたが、今回は悩みを振り切って存分に暴れまくる。
 ショーン・コネリーほど女性をメロメロにはしないが、ポンド・ガールは健在。ウクライナ出身のオルガ・キュリレンコとイギリス出身のジェマ・アータートンが色気は見せる。
 イギリス・パナマ・チリ・イタリア・オーストリア・メキシコと相変わらずロケ地は多彩。カーチェイスや空中戦などアクションの方もスケール・アップした。
 監督は前回と同じマーク・フォスター、脚本に「クラッシュ」のポール・ハギスが加わっている。

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 「誰も守ってくれない」

 <マスコミ報道の裏で起こっているもう一つの事件>その代表的な例が、テレビのワイドショーが追っかける容疑者家族の断罪。
 その代表的なテレビ局でもあるフジテレビが、真摯にその理不尽さ、非情さ、そして人間の危うさ脆さを映像化した。
 マスコミに代表される社会から追い詰められる容疑者の妹、その少女をを保護することになった刑事が主人公である。
 脚本を書き監督したのは、君塚良一。フジテレビ「踊る大走査線」の脚本を書き、その番外編でもある映画「容疑者室井慎次」では、監督も務めた。
 彼が警察取材を行う中で知ったこの事実を、10年間暖めてきた作品である。
 刑事役は佐藤浩市、容疑者の妹に志田未来。松田龍平、石田ゆり子、柳葉敏郎、木村佳乃ほか。
 モントリオール世界映画祭でも、最優秀脚本賞を受賞した佳作である。

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February 09, 2009

1162.日中水墨画合同展

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090208_008_640090208_033_640_2090208_031_640   
 久し振りに六本木に出かけ、新国立美術館を覗いた。
 故郷に住む中学時代のクラスメートから、応募した「水墨画」が入選したとの知らせが届いたからである。

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 「日本・中国水墨画合同展」、日中共通の文化である水墨の交流によって、相互理解と平和を希求する公募展で、今年は26回を迎える。

 右の水墨画「映える」が、友人の神園睦峰の作品。水墨を始めて10年になるが、3回目の入選。今回は努力賞も受賞した。

090208_015_640090208_014_640  左の作品は、同じ故郷の大先輩・橋口加寿の「新涼の朝」。今年80歳の彼女は、毎年「花」を題材にする。今回は優秀賞を受賞した。

 画を鑑賞しながら気がついたのだが、鹿児島からの出展が多い。326点の入選作品のうち、28人が鹿児島の画家だった。ひょっとして、故郷では水墨画がブームなのかもしれない。

 水墨画といえば、深山渓谷、達磨や李白の詩などが題材と思っていたが、最近の作品は自由闊達、まるで油絵の世界を描いているものも多い。
 中国からの招待作家22人の作品をふくめ、墨の織り成す世界を楽しんだ。

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                「日本中国水墨合同展」  国立新美術館で16日(月)まで
  入場料500円、65歳以上は無料

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February 08, 2009

1161.ブレトン・ウッズの黄昏(5)

   「スイート・ルームの部屋割り」

 「1本だけの橋」を渡って、霧の中をマウント・ワシントンホテルの敷地に入る。両側はゴルフ場で、およそ1キロ走ると玄関に着く。各国代表団の車が次々に到着する、36年前のニュース映画そのままである。
019_2025   回廊の柱も、シャンデリラも、総会が開かれた大ホールの白い椅子も、36年前と少しも変わっていない。

 このホテルは、もともと別荘として建てられたものである。今世紀のはじめ、ペンシルバニア鉄道を経営していた大富豪が、フランス・ブルタニアの王族出身の妻のため、ヨーロッパ風の城を築いた。
 下2階は石造りで、その上に回廊をめぐらし、さらに5階の木造の建物が乗っている。
 部屋の数は250室、3つの大バルコニーと4つのホールがあり、地下にはワイン貯蔵庫や食糧庫がある。

 大富豪の死後、別荘は人手に渡ってホテルに改造された。ブレトン・ウッズ会議が開かれたためホテルの名前も有名になり、いまではアメリカ東部の政財界人たちの絶好の避暑地となっている。
 宿泊者名簿を見ると、ケネディ元大統領の父親ジョセフ・パトリックや、ロックフェラー二世、ハーバード大学のガブスレイスら著名人の名が書き連ねられていた。

017016   ホテルに入ると、まずロビー横のブレトン・ウッズ記念室が目につく。扉には「ここで国際通貨基金と国際復興開発銀行の設立に関する協定が調印された」と刻まれたプレートが埋め込まれ、当時の会議を写した写真が飾られている。
 また、客室ひとつひとつの扉にも、その部屋に泊まった各国代表団のネーム・プレートが貼られている。

 代表団の名簿と部屋のプレートを照合していくうちに、面白い事に気がついた。部屋の大きさや位置が、当時の連合国の力関係や協力関係を偲ばせるからである。

 まず、主催者であり会議の議長となったアメリカのモーゲンソン財務長官の部屋は、3階ロビーの奥、「プリンスの間」と呼ばれる319号室。ひろびろとした豪華な造りの部屋である。
 その真下の219号室は「プリンセスの間」、これは別荘の主フランス王女の個室。ここにはイギリスのケインズ男爵夫妻が泊まっている。

 モーゲンソー長官の真上、419号室にはソビエト代表のステファノス外国貿易省次官が泊まっている。
 ソビエトは、結局IMF協定を批准せず現在も非加盟国であるが、当時は連合国の主要な一翼を担っており、次官は会議の副議長でもあった。

 その上の部屋は、中華民国代表の孔副総統。はるばる重慶から、47人もの大代表団を率いてきた。
 彼の夫人は、中国の宋慶齢名誉国家主席の姉、藹齢(あいれい)。つまり孔副総統は孫文、蒋介石の義兄にあたり、孔子の血を継ぐ名門の出である。

 この会議でアメリカは、重慶政府をいかに引き立てるか苦心している。代表団を運んだのもアメリカの軍用機と軍艦、開会式には孔副総統の演説をトップに持ってきている。
 当時の新聞によると、アメリカがあまりにも彼等に肩入れするので、ソビエト代表はたびたび抗議したという。
 このころ中国国内では、重慶政府の国民党とソビエトが支持する延安の紅群が、激しく主導権を争っていたからである。

 二間続きのスイート・ルームを割り当てられたのは、アメリカ・イギリス・ソビエト・中華民国の首席代表だけである。
 ついで広い中央の部屋に泊まったのは、会議の副議長となったオーストラリアのメルビル中央銀行顧問、ベルギーのグッド蔵相、ブラジルのソウザ・コスタ蔵相である。彼らは、英連邦、ヨーロッパ、中南米の地域代表という立場にあった。

 フランス代表の部屋は微妙である。
 のちに首相も歴任したピエール・マンデスフランスが、ロンドンからこの会議に出席していた。
 彼の部屋はそんなに大きくない。また中央からも離れている。アメリカのホワイト財務省補佐官と名時程度の待遇である。ホワイトは、のちこの会議を実質的にリードしたが、アメリカ代表団序列は12人中11番と低い。

 フランス代表に対するこの扱いは、当時の戦局と関係している。
 このころヨ-ロッパ戦線では、ノルマンディ上陸作戦に成功した連合軍がパリへ進撃中だった。もちろんドゴール将軍の率いる自由フランス軍も加わっている。また2ヶ月前にはアルジェに「フランス共和国臨時政府」を樹立、名実共に連合国の一員としての地位を確立しようとしていた。

 しかしアメリカは、「共和国臨時政府」をまだ正式に承認していなかった。「フランス解放後」をめぐって、アイゼンハワー連合軍最高司令官とドゴールは対立していたからである。
 マンデスフランスは、国家の代表ではなくフランス使節団の代表にすぎなかった。

 会議に参加したのは、44の連合国とILOなど4つの国際機関。また当時ドイツに占領されていたデンマークなどもオブザーバーとして参加している。
 だから250室の客室はすべてふさがり、従業員の宿舎までも代表団員に解放されたという。

 この時ブレトン・ウッズに駆けつけてきた報道関係者は50人。「フィナンシャル・ニュース」「ウオールストリート・ジャーナル」などの英米紙、スペイン、スウェーデン、スイスなど中立国のアメリカ駐在記者もその中にあった。

 「彼等はみな近くの農家に泊まり、毎日ホテルまで通って取材していた」

 当時を知る村の住人の一人が教えてくれた。

 「報道関係者の中には、枢軸国ドイツのスパイらしい人物も混じっていた」

                                                (第1部 終)

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February 07, 2009

1160.ブレトン・ウッズの黄昏(4)

 IMFが1969年に刊行した『国際通貨基金20年史』は、その経緯を次のようにのべている。

 「連合国通貨金融会議は、1944年7月1日、ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズのマウント・ワシントンホテルで開かれた。
 会議は、戦時中のためいくつかの困難な条件をかかえていた。ホテルは、1942年以降閉鎖されていたため、開催が決まると同時に急きょ改装工事にとりかかった。しかし、代表団到着までには間に合わなかった。
 ホテルは、マウント・ワシントンの麓の広大な森の中にあった。幹線道路とホテルの敷地の間には川が流れており、たった1本の橋がかかっているだけである。このため、外部から無断でここに侵入することは出来なかった。
 会議には、730人以上の人たちが参加した。ホテルの客室は満員となり、あふれた人たちは、5マイル離れた他のホテルを利用し、毎日ここまで車で通った」

015  ブレトン・ウッズを開催地に選んだ理由は、まずこの村が夏の会議にふさわしい避暑地だったからである。
 しかし最大の理由は、人里から隔離されていることだった。周囲はホワイト・マウンテンなどいくつかの山で囲まれており、村への入り口はカナダ側とボストン側の二箇所しかない。
 世界各地から参加するVIPの安全を保つには、最適の地理条件をかなえていた。

Fdrfiresidechat2  もうひとつに、アメリカの国内政治の問題があった。
 この年の秋は大統領選挙が予定されてる。ルーズベルトは、月末に開かれる民主党候補指名大会へ向けて、選挙運動中だった。
 会議場にこうした国内政治の問題を持ち込まぬよう、ワシントンやニューヨークから離れた場所が選ばれたのだ。

019  またこの会議は、ヤルタ会談などのような大国の首脳による政治的駆け引きの場と異なり、経済専門家による「戦後の国際通貨体制づくり」が目的である。
 山奥で、じっくりと議論を闘わせてもらおうと、主催者は考えたのだろう。もちろんこの村には、当時から劇場やクラブのような歓楽施設はなかった。

 「朝から夜まで、まるで学生のセミナーのように、連日討議が続けられた。疲れを癒す方法は、ときどきホテルの周囲を散策することだけだった」(デニス・ロバートソン)

 代表のひとりは、こう日記に書き残している。

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February 06, 2009

1159.ブレトン・ウッズの黄昏(3)

    「霧の中の古城」

 私たちの乗ったPM52便は、朝8時半にニューヨークを飛び立ち、コネチカット、マサチューセッツ州の上空を北上していった。
 飛行機は、15人乗りの小型双発機である。ボストンやカナダへむかう大型ジエット機の針路をさけるためか、まるで遊覧飛行のようにゆっくりと低空で飛ぶ。
 眼下には、東部アメリカの大金持ちたちの豪邸が続く。プール、テニスコート、ゴルフ場がならび、自家用機用の滑走路が見える。
 戦後35年、ドルの力で繁栄を謳歌してきたアメリカ経済の、象徴的な眺めだった。

 2時間後、小型機はニューハンプシャー州南部の町マンチェスターに到着した。田舎町の小さな空港である。私たちは、ここでレンタカーに乗り、ルート93をカナダ国境にむけて北上した。

 ブレトン・ウッズの所在地が確認できたのは、ニューヨーク到着後だった。「マウント・ワシントンホテル」の名を手がかりに捜したところ、ホテルはいまも健在であることがわかった。

 「現在は、夏のシーズンだけ営業しております。残念ながら今年はもう閉鎖してしまいました。お泊りは無理でも、撮影の便宜ははかりましょう」

 ニューヨークに住むオーナーのボブ・リーブ氏は、近くの村に住む渉外担当のマリー女史を紹介してくれた。

 マンチェスターから180キロ、カナダ国境に近づくにつれ周囲の風景は変わっていく。はじめ車窓からの眺めは、広大な牧場の連続だった。やがてそれは針葉樹の森になる。
 ところどころに、瀟洒なコテージが建っている。しかし、人影はまったくなく、ドライブ・インも閉鎖されていた。

 目印のツイン・マウンテン村を右折、302号線に入ると森の間にマウント・ワシントンが見えてきた。すでに山の頂は白い雪に覆われ、麓は霧につつまれている。
012  その霧の中から、突然「古城」が現れた。赤い屋根と白亜の建物、それは私たちが出発前に見た、古い写真そのままの姿だった。

 「ブレトン・ウッズへようこそ。この村を訪れた日本人のお客様は、おそらく皆さんが初めてでしょう」

 村の入り口のモーター・インで、マリー女史が迎えてくれた。

089  「村の住人ですか?現在は十数人しかいません。村にあるのは、ホテルのほか三つのモーター・インと、二つの軽食堂だけです。それも、このモーター・イン以外は全て閉鎖されていますから」

 村を案内しながら彼女は説明した。

013  戦後30数年、村のたたずまいはほとんど変わっていないという。冬のスキー客用のモーター・インができたのと、村の中央を通る鉄道が1日2本の貨物専用線となり、駅の待合室が衣がえしただけである。
 ここは、ニューヨークから飛行機を利用しても4時間、列車ならまる1日もかかったであろう山奥の村なのである。

 ルーズベルト大統領は、なぜこんな不便な山奥の村を、国際会議の開催地に選んだのか?村を歩きながらこんな疑問にとらわれた。
 「連合国通貨金融会議」は、第二次世界大戦中では、最も大規模な、そして重要な国際会議だったのに。(続く)

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February 05, 2009

1158.ブレトン・ウッズの黄昏(2)

 日本を出発する前、私たちはブレトン・ウッズの会議に関するさまざまな資料を集めた。「協定原文」「各国代表団名簿」「議事録」「ニュース・フイルム」「録音テープ」などである。

088_2  この中に、会議場となったホテルの写真が1枚だけあった。ホテルの名前は「マウント・ワシントンホテル」、ヨーロッパの古城を想わせる7階建ての堂々たる建物が写っている。

 086 ワシントンにある国立公文書館から送られてきた「1944年・夏」と題するニュース・フイルムにも、「ヨーロッパの古城」があった。
 第二次世界大戦の趨勢を決定的にした「Dデイ」、6月6日のノルマンディ上陸作戦を伝えるニュース映画の最後に、突然マウント・ワシントンホテルの全景が現れた。

 勇壮な音楽をバックに、ナレーションが続く・・・・。

 「ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズに、44カ国の連合国代表が集まり、国際通貨金融会議が開かれました。この会議は、1943年のロンドン会議の決定にもとづいて開かれたもので、ルーズベルト大統領は、このすばらしい避暑地に連合国の代表たちを招きました。」

 「ルーズベルト大統領は、会議の開会にあたってメッセージを送り、『世界経済の健全な発展によってはじめて、各国の国民生活の水準を引き上げることができる』と、のべました。」

 「これに対し、中華民国代表の孔祥熙副総統は、出席者を代表して『通貨問題において、各国の協力が平和への道である』と演説し、代表団全員が拍手でもってこたえまし。・・・」

013  ニュース・フイルムは、ホテルの全景に始まり、列車で到着する各国代表団の姿、大ホールでの開会式、孔副総統と握手するアメリカのヘンリー・モーゲンソー財務長官、イギリス代表団席のジョン・M・ケインズ大蔵省顧問らのカットが続き、最後はホテルの庭で談笑する代表たちの記念撮影風景が写し出された。

016  36年前のこのモノクロ・フイルムに登場する人々は、皆にこやかに笑っている。それは、第二次世界大戦の勝利を確信した笑顔なのかもしれない。
 そして、彼らの背後に、美しいブレトン・ウッズの山と森とがひろがっていた。
 

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February 04, 2009

1157.ブレトン・ウッズの黄昏(1)

  「地図にない村」

008  ニューヨークのラ・ガーデァ空港東端にある小さなターミナル、私たちはここでマンチェスター行きPM52便に乗り、ブレトン・ウッズへむかった。レーガンが新大統領に選ばれた2日後の事である。

 アメリカ大統領選挙の翌日、私たちはニューヨーク・ダウンタウンにある金融街ウオール・ストリートで、外国為替市場を取材した。この日、市場は朝から熱気にあふれ、「ドル」も「金」も「株式」も急騰した。

024  銀行の首脳たちは、「レーガンの経済政策はまだ未知のものが多いが、期待は持てる」と語り、強いアメリカ経済の再建や、国際通貨としてのドルの復権を期待していた。
003  また、ニューヨーク商品取引所では、「金・ドル本位制の復活」を予想する声すら聞かれ、先物の金の価格は上昇した。

 36年前ブレトン・ウッズでの会議にかけたアメリカ国民の期待も、こうした「世界経済におけるドルの主導権の確立」であった。
 第二次世界大戦中の1944年7月、ここで「国際通貨と金融機構に関する協定」が結ばれ、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が設立されたからである。

 ブレトン・ウッズ会議は、ヤルタ、ポツダム会談と並んで、戦後史を築いた重要な国際会議である。ここで調印された協定によって、アメリカは名実ともに国際経済の主導権を握り、「世界の銀行」として君臨することになる。
 ドル中心の国際通貨体制、いわゆる「ブレトン・ウッズ体制」が誕生したのである。

 ブレトン・ウッズの名は、「国際通貨問題」を語る本の第1ページに必ず登場する。カナダ国境に近いニューハンプシャー州にある村の名前らしい。
 しかし、私たちが現地から取り寄せた「州地図」や「ロード・マップ」のどこを捜しても、その村の名前を見つけることができなかった。
 手がかりは、1枚の写真と1本のニュース・フイルムだけだった。(続く) 

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February 03, 2009

1156.オバマ政権の100日

Images 先月の勉強会「A塾」は、オバマ大統領の就任演説を題材に「オバマ政権の100日」をテーマに議論した。
 特に経済分野が主題だったが、支持率70%超が今後どう動くのか、この100日が勝負。出席者は各々2期8年の予測をたて、その理由を披露した。
 
 オバマの支持率については、大方が右肩下がりと予測したが、戦後歴代のアメリカ大統領の支持率の変化はどんなだっただろうか。

 出典はギャラップ、AP、ウオール・ストリート・ジャーナルだが、当然ながら多くの大統領が右肩下がりである。
 ニクソンはウオーターゲート事件で、就任当時60%を超えていた支持率を20%近くまで下げて辞任した。
 先の大統領ブッシュも、「9.11」で90%まで延ばした支持率を30%以下にして退任した。
 意外だったのはレーガンとクリントンである。「金融規制緩和」のレーガンは、60~40の間を保ち、退任時も60%に近かった。またクリントンは、「情報ハイウエイ」が支えとなってスキャンダルにも関わらず、40~65%を維持した。
 おもしろいのはアイゼンハウアー、ほぼ60%台の横ばいだった。

004002020  となると、オバマはこの未曾有の「金融危機」「経済不況」の中で、どんな手を打つことが出きるのだろうか。
 講師の問題提起の中で、我々は考え込む。

Photo  「減税」「雇用創出」「金融信用回復」を短期目標に、「インフラ再建」「医療保険改善」「金融規制強化」を中期目標として、「強いアメリカ」を再建するというオバマ。
 しかし経済面においては、もうアメリカ一極体制、ドル基軸通貨体制は戻らないだろうというのが、塾生たちの共通の認識だった。
 「ニクソンショック」で形骸化した「ブレトンウッズ体制」は、今回の金融危機で完全に終焉を迎えたというわけだ。

 最近ケインズ学派の学者たちの声が大きい。彼らは、「アメリカの著名学者の名を借りては構造改革や金融緩和を煽り、公共投資無効論を唱えたのは誰だったのか」と、新古典派を批判する。
 「上からのケインズ主義」のみでは展望は開けないとしながらも、「アメリカ・システムの崩壊」後を論ずる。
 日本でも「ケインズの闘い」(藤原書店)という高価な本が売れ、あのブレトンウッズでのケインズとホワイトの論争が話題となる。

012  そういえば30年ほど昔、「ブレトンウッズ25年」と題したルポルタージュを本に書いた事があった。塾生間の議論の中で指摘され、そのことを思い出した。
 本は既に廃刊になっているが、当時の原稿をみつけたので、このブログで連載してみよう。
 明らかな誤りなど一部加筆削除するが、あくまでも執筆した1981年の時代状況を考え、そのまま掲載する。当時撮った写真も加えて「ブレトンウッズの黄昏」というタイトルで。

(本号に添付したホワウトハウス、自由の女神、シカゴ穀物市場、マウント・ワシントンホテルの写真も、その取材の折のものである) 

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February 02, 2009

1155.レボリューショナリー・ロード

044045  左の写真は、アカデミー作品賞に輝いた空前の大ヒット作「タイタニック」の1シーン。レオナルド・ディカブリオとケイト・ウインスレットの初々しいカップルを思い出す。

 それから11年、再び共演したのが右の写真、「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」。
 すでに大スターとなった二人が、迫真の演技を見せる。

 我々の世代にとってはもう「枯れて」しまった事だが、若いカップルには「他人事」ではない世界のお話。

332137_100x100_005  アメリカのある郊外、レボリューショナリー・ロードと呼ばれる新興住宅街に住む幸せそうな若夫婦。二人の子供に白い瀟洒な家。

 会社員の夫(レオナルド・ディカブリオ)は、決まったパターンの単調な日々。会社の秘書をつまみ食いするが満たされない。

 332137_100x100_011 女優志願の夢を捨て子育てと家事に明け暮れる妻(ケイト・ウインスレット)は、満たされない「何か」に苛立つ。
 それは新婚時代に語り合った「輝く未来」が、遠のいていく「時間」だった。
332137view001  二人は、もう一度人生への情熱を取り戻そうとするが、ついに「燃え尽きて」しまう。

 監督はウインスレットの夫でもあるサム・メンデス。「アメリカン・ビューティー」でアカデミー作品賞・監督賞を受賞したイギリス出身の実力は監督である。
 これまでも「ロード・トゥ・パーテーション]('02)「ジャーヘッド]('05)など、その鋭い人間描写には定評がある。
 今回も、1950年代の繁栄の時代を舞台に、「アメリカ的幸福」の正体を暴き出した。

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 原作はリチャード・イエーツの同名小説。ロバート・ケネディのスピーチライターでもあった彼は、自らの体験を小説にしたがヒットせず、不遇のうちに亡くなっている。
 しかしその後、この作品は「タイム」誌の「ベスト100」に「風と共に去りぬ」や「指輪物語」と並んで選ばれている。

 この作品に惚れ込み映画化を進めたのが、ケイト・ウインスレット。夫と共に親友でもあるレオにラブコールして、11年目のコンビが誕生したという。

 「みずみずしい感性と、非の打ち所のない完璧さを備えた傑作」(「ニューズウイーク」)と評されるように、ゴールデン・グローブ賞では4部門にノミネイト、ウインスレットが最優秀主演女優賞を受賞している。
 またアカデミー賞には、助演男優賞(マイケル・シャノン)など3部門がノミネイトされている。

 レオとケイトの火花散る演技による「夫婦喧嘩の凄さ」、これだけでも一見の価値!?がある。

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