IMFの理想
『半枢軸国の貨幣制度案の意義とわが国の地位』と題した一冊の本が、終戦の年の8月に刊行されている。著者は大内兵衛、おそらく「戦後のIMF体制」について総括的に書かれた本としては、世界でも最初のものに違いない。
戦時中、治安維持法で大学を追われていた大内兵衛は、日銀調査局の顧問を勤めていた。当時の日銀総裁・渋沢敬三が招いたのである。彼は、銀行家であると同時に典型的な文化人で、ひそかに恩師でもあった大内博士を顧問として迎え入れたのである。
大内は調査局で「第一次大戦後のドイツ・インフレーションの研究」を、スタッフと共に進めていた。渋沢総裁もすでに敗戦を予測しており、戦後生ずるであろう超インフレの対策を考えていたからである。
スタッフといっても、呉文二(後の立正大学教授)、赤松正章(同じく大垣共立銀行頭取)、吉野俊彦の三人で、「閉鎖されていた図書室で、もっぱらドイツ・インフレーションに関する基礎文献を、先生の指導で読む」(吉野)毎日だった。
しかし、こうした研究が基となって、終戦後の10月17日のNHK放送「渋沢蔵相に与う。インフレーションに対決するため蛮勇をふるえ」の、あの有名な大内談話が生まれるのである。
大内兵衛が、日銀調査局のスタッフと取り組んだもう一つの研究、それが「ブレトン・ウッズ協定」の分析だった。
「やがて日本もこの新しい国際通貨体制に加盟しなければならない」と彼は考え、「ベルリン情報」をはじめ日銀調査局が集めた全ての資料を駆使して、論文を書き上げた。
大内は、マルクス経済学派の学者だけあって、冷静に「反枢軸国の通貨会議」を受け止めている。
彼は、「金本位制復活による国際自由主義の再提唱は、ドル帝国主義の思想である」と批評するドイツのフンク蔵相や、「米英の意図は、戦局の苛烈さと困難から自国民の目をそらし、反枢軸国をして米英の勝利を幻想せしめんとする謀略」と決め付ける当時の石渡蔵相を、青白きインテリのヒステリックな発言と批判した。
そして「この会議の世界経済的な意味を政治問題化せず、協定の持つ理想にも目をむけるべきだ」と、スタッフたちに忠告した。
彼の言う理想とは、世界各国の相互協調であり、人民の経済的自由の拡充、それによる世界経済の発達である。
彼は、「貨幣は金でなければならぬ」という信念をもっていた。論文は「金本位をすて、インフレーションの道を選んだ国ほど、経済力を失っていった」と、第一次大戦後を分析し、第二次大戦は「インフレーション競争曲最後の段階」と述べる。
なかでも「円ブロック」と「マルクブロック」は、ポンド・ドルブロックに比べインフレ率が高く、その点が戦争の緒戦に勝ってもやがて失敗していく経済的理由だと指摘する。そして「これらの点に関する認識について、事実の上に謙虚でありたい」と結ぶ。
さらに彼は、協定の意義を5つの視点から考えた。
第一は政治的意義である。米・英両国がそれぞれの案を公表し、お互いに批判しながら一つにまとめ、ソビエトまで引き込んでいくプロセスである。
彼は「米英の示した政治的見識と度胸と技術は、敵ながら相当の手腕」「それはまさに、勝利者としての意気込み」と評した。
経済的意義については、マルクス経済学者らしい分析を行っている。
協定は「国家資本主義への飛躍」であり、「新しい金為替本位制の誕生」をもたらし、「金融帝国主義の新段階」を生み、「完全雇用の理想」を掲げていると、4つの意義を認めた。
分析はここで中断した。彼は二度目の戦災に会い、自宅に置いてあったいっさいの資料やメモを焼失してしまったのである。
そして終戦を迎える。彼はいそいで「国際基金案と日本」の稿をおこし、論文を印刷にまわした。
「このころ、先生は毎日調査局の一室にこもっていました。インフレの進行による財政の破滅を心配していたのです」と、吉野俊彦さんは当時を振り返る。彼もまた、大内兵衛と共同研究をすすめながら「行内資料」を書き上げていた。
アメリカやイギリスの議会で、「ブレトン・ウッズ協定」をめぐる論議が戦わされていたその時、枢軸国日本でも密かにその検討が行われていたのである。
しかしそれは、日本銀行の密室の中の、二人だけの孤独な作業だった。
1952(昭和27)年8月13日、日本はそれぞれ2億5000万ドルを出資してIMFと世界銀行に加盟し、国際経済への仲間入りを果たした。翌14日には、西ドイツも加盟する。
1981(昭和56)年現在、日本は24億8850万SDRの割当額を持ち、アメリカ・イギリス・西ドイツ・フランスとともに任用理事国となっている。 (完)
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IMFの加盟国は、現在185カ国。3520億ドルの出資割当額を持つ。今回の金融危機に対処するため、5000億ドルに増やしたいとストロスカーンIMF専務理事は各国に呼びかけた。
日本は先日の7カ国蔵相・総裁会議で、1000億ドルの融資を表明した。この結果日本のクオーター(出資割当額)は、全体の31%を占めることになる。
しかし「ブレトン・ウッズ体制」そのものは、1971年の「ニクソン・ショック」によって大きく変容した。
アメリカが、25年にわたって巨額のドルを世界中にばら撒いたため、金の保有額を超えドル暴落の危機が迫った。そこでニクソン大統領は、ドルと金との交換停止を宣言したからである。
さらに一人歩きしたドルは、37年後世界中を金融危機に陥れた。まさに「ブレトン・ウッズ」体制は、完全に終焉したのである。
「ニクソン・ショック」とその後の「通貨戦争」については、またいつか稿を改めて掲載する。
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