ここひと月、鹿児島の話題が途切れていた。
おなじみ焼酎の話題で「さつま今昔」を再開しよう。
「黒瀬杜氏」

九州の西南、南さつま市の中心街から国道226号(南さつま海道)を西へ15キロ、赤生木を左折して5キロ行くと、リアス式海岸の高台に赤いアーチの門が見える。黒瀬の焼酎造り伝承展示館「杜氏の里笠沙」である。
ここは古くからの蔵元ではなく、自治体と黒瀬杜氏たちが1993(平5)年に作った3セク、焼酎製造の技術を公開しながら黒瀬杜氏の歴史や味を伝えるところである。
ここに評判の焼酎「一どん」(いっどん)がある。伝統の黄麹仕込みと昭和の白麹仕込みをブレンドしたこの焼酎は、まるみを帯びた味とコクが人気を集める。
生産量が少なく限定販売のため、往復はがき申し込みの抽選でしか手には入らない。
「一どん」という一風変わった銘柄は、阿多杜氏の出身ではあるが、初代黒瀬杜氏のひとり片平一(はじめ)さんの愛称から付いた名前である。
明治の半ば、彼は黒瀬巳之助、常吉の三人と一緒に泡盛の蔵元に出稼ぎに行き、ここで「黒麹」による仕込みの手法を密かに習得した。
これが「黒瀬杜氏」のルーツとなる。
1899(明32)年、明治政府は日清・日露戦争の戦費確保のひとつとして、酒税に狙いをつけた。そこで自家用酒の製造を禁止して免許制をとったのである。
鹿児島では味噌や醤油同様に焼酎は、アネサンやウッカタ(主婦)が家で作っていた。主婦達は、原料の芋を植え、腕を振るって自慢の焼酎を仕込んだ。
その年の地元新聞によれば、「自家用酒の製造者は、其の数十萬人余」と伝えている。そして「本県の如き古来の因習に依て、農民には非常に痛苦を与える」と記す。つまり、金を払って買わないと、焼酎が飲めなくなったからだ。
自家用酒の製造禁止直後、ビジネスとして蔵の免許を取った数は3500を超えた。しかし小規模醸造所は淘汰され、明治末には半数に減っている。
こうした中で大手蔵元の競争が始まる。品質の向上である。そこで焼酎づくりのプロとして、「黒瀬杜氏」や「阿多杜氏」の秘伝の腕が求められた。
黒瀬は南九州の「すんくじら」(隅っこ)にある狭隘な山村である。水田や畑は少なく秋の収穫後は、出稼ぎに出るしかない。ちょうど芋焼酎の仕込みの時期である。
この事が、優れた杜氏をを生む背景となった。そして雑菌の混じりやすかった「黄麹」に代って、南アジア主流の「黒麹」による製法を身につけた、片平さん等の活躍の場が広がるのである。
彼らは、親類縁者を蔵人として引き連れ蔵元に参上する。その蔵人の中から腕をみがいた「杜氏」が誕生する。そして鹿児島県内はもとより、九州一円、中・四国へと出かけた。
出稼ぎ杜氏が増えた大正後期、南さつまでは近隣の杜氏たちが集まり「加世田杜氏組合」が結成され、昭和に入るとそれが分かれて「黒瀬杜氏組合」「阿多杜氏組合」となる。
組合では、県の工業試験場の技師で「白麹」を開発した河内源一郎等を招いて研修会を開くなど、杜氏の技術向上につとめ「黒瀬杜氏」(「阿多杜氏」)の名をさらに高める。
そして1960年代、そのピーク時には黒瀬杜氏370人、阿多杜氏120人を数えた。
しかしその後、酒造の機械化、蔵の大規模化、なかでも「自動麹製造機」の導入によって「杜氏」の役割は減った。杜氏の後継者の多くが高度経済成長の波に乗って、他産業に転じていく。
今では阿多杜氏はほとんど姿を消し、黒瀬杜氏30数名が名を残すのみになっている。

平成に入って「焼酎ブーム」が起こる。さらに6~7年前からは第二次、つまり芋焼酎を中心とした本格焼酎のブームとなる。それは甕仕込み、木桶蒸留など昔ながらの製法を売り物にした。再び「杜氏」の腕が、脚光を浴びるのである。
4年前にNHKテレビで紹介され、最近では英字新聞で海外にも紹介された黒瀬杜氏・吉行正巳さんもその一人である。
杜氏歴55年、宮崎で修行し、熊本で「球磨焼酎」を手がけ、奄美で「黒糖焼酎」、鹿児島で「伊佐美」「佐藤」「前田利衛門」を、そして3年前に銘酒「八千代・伝」を、垂水の地で復刻した。
鹿児島大学の焼酎講座で教えるなど、日本の焼酎杜氏を代表する吉行さんは、わが焼酎バー「黒瀬」の宿里店主の伯父でもある。
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