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May 29, 2010

1564.庄内・歴史の旅(4)

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 吉永小百合のTVコマーシャルでお馴染みの「山居倉庫」。
 米どころ庄内平野の中心地・酒田に造られた「米蔵」も、菅実秀が日米商会所の事業として1893(明治26)年に建てられたものである。
 現在もJA庄内が使っている、現役の倉庫である。

 晩年実業界に転じた菅は、第六十七国立銀行(現庄内銀行)を設立し、ドイツ留学から帰国した旧藩主忠篤・忠宝の後見人を務めながら、庄内の産業振興に貢献した。

100522_168_640100522_164_640  最上川と新井田川とに挟まれたこの地は、舟の積み下ろしに便利で、庄内平野の各地から川舟によって運ばれてきた米俵は、ここに保管された。

 もともと酒田は「酒田三十六人衆」の自治によって支配された町人・商業の町だった。

   「酒田三十六人衆」

100522_154_640_2100522_150_640100522_159_640 酒田市役所の前にある国指定史跡「旧鐙屋(きゅうあぶみや)」。

 酒田を代表する廻船問屋で主人の惣左衛門は代々「三十六人衆」を代表する、3人の町年寄役のひとりだった。

100522_289_640100522_156_640  鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」にも記されており、「表口三十間裏行六十五間」の屋敷と蔵を持つ、北の国一番の米買い付け商人だった。

 酒田が日本海一番の港として栄えたのは、1672(天和3)年伊勢出身の商人・河村瑞賢が、幕府の命を受け「西廻り航路」を開いたからである。

100522_288_640100522_291_640_3  酒田を起点に蝦夷との往復によって昆布や鰊、最上川の川舟で運ばれてきた年貢米に紅花や青苧(あおそ)、大豆・小豆・蝋・漆。
 品々は酒田で北前船に積み替えられて、敦賀、関門、瀬戸内、大阪、紀伊、江戸へと運ばれていった。
 そして帰り船は、塩・干し魚・茶・陶器・京織物など。

 これ等の流通を一手に引き受けたのが酒田の廻船問屋で、江戸中期にはおよそ100軒の大店があったという。

100522_141_640100522_146_640 左の写真は、日本一の豪商と言われる本間家旧本邸。

  「酒田照る照る 堂島曇る 江戸の蔵前雨が降る」

 大阪の堂島と江戸の蔵前で米相場を張った本間宗久(1724~1803)は出羽の天狗と呼ばれた。
 酒田三十六人衆、本間家二代目光久の弟でいわば本間商事・浪花支店長である。

100522_287_640  三代目光丘(1733~1801)の時から自前の北前船による商いを始め、庄内砂丘の砂防林造営、庄内平野の土地改良・水利事業を行った。
 そして飢饉で困窮する農民には低利で金を貸すなどして、1000haを持つ大地主となっていく。

 さらに本間家は苗字帯刀を許され、庄内藩主酒井家の財政顧問となり、多額の金銀を融通する。

 戊辰戦争での庄内藩の強さは、本間家からの金銀の裏付けがあったからである。
 先述したように、酒井家の敗戦処分逃れや維新直後の国替えを避けるための賂70万両は、本間家(10万両)が中心となって集めている。

 「本間様にはおよびもないが せめてなりたや殿様に」

 国防、貿易、産業振興、福祉などなど、システマチックな統治政策を、私たちは「酒田三十六人衆の世界」に学んだ。 

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